豊見城の歴史
歴史の香りただよう街、豊見城
豊見城(とみぐすく)という地名は、三山時代(13~15世紀)に、後の南山王となる汪応祖(おうおうそ)が漫湖を眺望する高台に城(グスク)を築き、それを「とよみ城」と呼んだことに由来するといわれています。
「とよみ」とは、”鳴り響く”、”名高い”などの意味があり、それが時代とともに「とよみぐすく」「てぃみぐすく」「とみぐすく」と変遷したと思われます。
この時代の豊見城は南山王の配下で、中山に対する第一線として、豊見城城、長嶺城、瀬長城、平良城、保栄茂城の各城砦が築かれ、三山時代の重要な場所でした。
琉球王朝時代になると、豊見城間切に番所が設置され、現在の市域以外にも、那覇市、糸満市、東風平町の一部を領域とする大きな村でした。
1879年(明治12年)の廃藩置県で、琉球藩から沖縄県となり、1908年(明治41年)4月、豊見城間切から豊見城村と改称され、間切長も村長に改められました。1920年(大正9年)から一般町村制が施行され、前近代的ではありましたが、町村自治がスタートしました。
第2次世界大戦では、1945年(昭和20年)4月1日に米軍が沖縄本島に上陸、以後約三ヶ月にわたり沖縄県は戦場となり、豊見城市も瓦礫と灰燼に帰しました。
戦後の1945年(昭和20年)11月、県内各地にあった捕虜収容所から住民は帰村が許され、戦火を潜り抜けた人々が県内各地や本土、海外からも帰ってきました。その後、1972年(昭和47年)5月15日の本土復帰まで沖縄県は27年間にわたりアメリカの支配下に置かれました。
豊見城市は、戦前はサトウキビ、戦後は野菜産地として有名な純農村でしたが、本土復帰を境に、急速に都市化が進み、人口も増加の一途をたどりました。1976年(昭和51年)12月末には全国一人口の多い村(当時は豊見城村)となり、以後、全国1位、2位を競い合う”大きな村”に発展しました。
1978年(昭和53年)に策定された「第1次総合計画」の基本構想で”市へ移行する”ことを目標に掲げ、市制施行へ向けたさまざまな取り組みを進めてきました。
そして2002年(平成14年)4月1日、念願の市制施行を実現しました。ちなみに地方自治法施行(昭和22年)後、村から町を飛びこえ単独で市になったのは、全国初です。
ハーリー発祥の地
旧暦5月4日に県内各地で行われる伝統行事のハーリー(爬竜船競漕・海神祭)は本市と深い関係があります。
1745年に琉球王府が編集した歴史書「球陽」によると、3つあるハーリーの起源説の一つに、汪応祖(豊見城城主・南山王弟)が中国留学したときに見たハーリー舟を作らせ、城下の漫湖で遊覧したのが始まりであると記されています。
また「琉球国由来記」や「琉球国日記」によるとハーリー舟は津屋(漫湖にある小さな浮き島)に漕ぎ入れ、豊見城城(城内御嶽・豊見瀬御嶽)に拝礼したといいます。現在でも字豊見城自治会や同字の各門中が毎年この日に豊見瀬御嶽で「ハーリー御願」をささげるなど、何百年にもわたりハーリーの神事が脈々と受け継がれています。
ジョン万次郎と字翁長の高安家
中浜万次郎(1827-98)は、土佐中の浜(高知県土佐清水市)の出身で1841年、出漁中に遭難し無人島(鳥島)へ漂着するが、アメリカの捕鯨船に救助された。万次郎は船長に「ジョン万」と呼ばれ気に入られた。そしてアメリカで教育を受け英語・航海術等を学び、のちに捕鯨船乗組員となり世界各地をまわった。彼のアメリカでの生活は約10年に及んだ。
1850年、望郷の念にかられた万次郎は、ハワイにいる仲間とともに中国航路の商船に便乗し、翌年琉球近海でボートに乗り移り摩文仁間切小渡(糸満市大渡)へ上陸する。そして那覇へ護送される途中、王府の命令により字翁長の高安家(屋号:徳門)に収容されることになる。
万次郎は当初、言葉も通じなかったが、のちには琉球の方言も話せるようになり、冗談も言い合うようになったといわれる。また、翁長の伝統行事である綱引きに参加したり、地元の人たちと酒を酌み交わしたという伝承などから、彼の才能と人柄をうかがい知ることができる。
彼は半年後、琉球を出立し薩摩、長崎で取り調べを受け土佐に帰郷する。その後、万次郎は土佐藩を経て、幕府に招聘され、航海術の書物の翻訳や捕鯨の指導などにあたり、1860年には遣米使節団の通訳として勝海舟や福沢諭吉らとともに咸臨丸で渡米する。そして明治維新後には開成学校(現:東京大学)英語を講じた。
このように万次郎がアメリカで身につけた語学や知識が幕末から明治へと向かう激動の時代を影で支える力となった功績は高く評価されている。そのような人物が字翁長に滞在し、交流があったというのは興味深い。
両家の交流はその後も続く。また、豊見城村は万次郎ゆかりの地として高知県土佐清水市と姉妹都市を結び交流を温めている。
豊見城の文化財
シーサー
村内各地に石で作られたシーサー(しし)が見られ、地域の守り神とされている。
シーサー巡りをしてみるのも一興。写真は名嘉地のシーサーで、他に根差部、真玉橋、饒波、平良、高嶺、保栄茂、渡嘉敷、田頭などに見られる。
高安の龕輿祭り
字高安で12年に一度、辰年の旧暦8月9日に行われる伝統行事で、死者を棺に入れて墓地に運ぶ輿(みこし)、龕(ガン)の霊を鎮め、慰めると同時に区民の無病息災、豊年を祈願する祭りである。
UJIZOME Collection
ウージ染め共同組合で販売しております。
組合販売コーナー(豊見城市観光プラザてぃぐま館内)
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組合所在地
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〒901-0225
沖縄県豊見城市字豊崎1-1162