豊見城村と那覇市の間を流れる国場川にかかる真玉橋は、1522年、尚真王により、首里と豊見城間切を結ぶ重要な橋として建設されました。
しかし、当時木で造られた真玉橋は、大雨のたびに洪水で流されてしまうため、1707年尚貞王の時代に、じょうぶな石で造り替えることになったのです。
ところが、工事のために大勢の人をかりだしたにもかかわらず、大雨になるとせっかく造った橋脚が流されてしまうため、工事はなかなかはかどらず、役人たちは困り果てていました。
そんな時ひとりの神女が現れ、「この橋を完成させるためには、子(ね)年生まれデ、七色の元結をした女を人柱として立てよ」と神のお告げがあったといいました。
「な、な、なんと人柱とな」びっくりした役人たちでしたが、神女の言うことにはさからえないため、あらゆる手段を使って探させました。けれども、子年生まれで七色の元結をした女は、なかなかみつかりません。
そんなある日のこと、あの神女も子年生まれであることが、役人の耳に入りました。そこで、役人たちが神女の家を訪ねてみると、なんと神女の元結が七色に輝いているではありませんか。
思わぬ役人の訪れにあわてふためいた神女は、「これは、誰かが私をおとしいれるためのしわざです」と泣きながら訴えましたが、役人たちは耳を貸しませんでした。
あくる日、神女は、自分が口に出した神のお告げどおり、人柱として生き埋めにされることになりました。
大勢の人々がその様子を見守る中でなげき悲しんでいるひとり娘に向かい、神女は大声でこう叫びました。「娘よ、どんなことがあっても人より先に口をきいてはいけない」泣きながら母の最後の言葉を聞いた娘は、それ以来、口をきかなくなったのです。
その後、村人たちは、「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん」(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)と言って、お互いに戒めあったということです。
※七色ムーティーの言い伝えは、本土の「長良川の人柱」という芝居をもとに平良良勝が「真玉橋由来記」として書き直し、昭和10年頃上演されたのが始まりともいわれています。